福生のアメリカンハウスに住み始めたきっかけは、ロックバンドの練習場所確保の目的もあったが、それよりも当時の私に必要だったのは自転車をつくるための工房スペースが必要だった。
魔女が乗るほうきの柄という意味の「Broomstick」という名前で、自分の自転車を作り始めた。
すぐに私の自転車作りに賛同して相棒になってくれたのが、いつか人力飛行機の映画をつくりたいと映画製作の勉強をしていた東豊久だった。もう一人、我々の自転車作りになくてはならない人がいた。それは今でも16号線沿いで自転車屋を営んでいる中村誠司氏だ。当時、輸出自転車用にしか使われていなかったコースターブレーキなどのパーツを分けてくれた。フレームの低温溶接について、職人を紹介してくれたのもあの親父さんがいたおかげなのだ。
1年で30台くらい製作した。
シブヤ西武や池袋西武に売り込みに行ったり、ananなどのファッション誌や若者向けの雑誌などに紹介されたりした。
中でも熱心に取材をして、きれいな自転車の写真をいっぱい撮ってくれた編集者とカメラマンがいた。それが旧姓 上野いづみさんと石森均さんだった。当時、季刊誌として発行されていた「私の部屋」の取材でこられたのだ。製作している自分たちでもやらないようなフォトジェニックな場所に自転車を運び、写真を撮る。「すごい人達だな!」と関心していた。完成した写真はどれもすばらしく、記念にいただいた。その後、交流はないがあるとき二人の活躍を知ったのだ。
結婚された二人は、ISHIMORI STUDIOを創立、そのホームページには彼女が歩んだキャリアが次のように紹介されていた。
石森 いづみ
早くからデザインの基礎を学び「私の部屋」「生活の絵本」など雑誌編集に深く携わる。後に伊丹十三監督と出会い、「たんぽぽ」から一環して彼の映像に関わる。以後TVCF、雑誌、スクール講師などあらゆる「食」のシーンに活躍。趣味か仕事か、プロに勝る器の目利きは驚嘆。正真江戸っ子。
このような媒体に紹介されたおかげで自転車は完売できたが、作りたい自転車を自分たちのペースで作っていたので、生活は苦しかった。
それでも広い庭と都内とは違う空気に充実した日々を送ることができたのだ。
買っていただいたBroomstickのロゴが入った自転車は、まだ存在しているのだろうか。
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おまけ:この写真、やっとみつかったのだ。いつも秋山さんにお話していたドイツ製?の不思議な自転車。井の頭公園の藪の中で朽ちていたのをレストアした。
やぁ、徐々に栗田さんのアーカイブがあきらかになってきているのだ。それはアーカイブというよりも、ダンジョンというべきものなのではないのか。
最近、栗田さんにとって、「ブリコラージュ」がどんなに親しく重要なものかが、やっと分かってきたのだ。
きっと、それを分からなくしていたのは、コンピュータだったんでしょうね。
投稿情報: AKi | 2004-12-08 13:37
思わず「ダンジョンの定義」をあたらめて調べてしまいました!
確かにアーカイブとはほど遠く、自身の意志で閉じてしまった場所や、今は通じていない通路などが数多く存在する「迷宮」のような時空倉庫です。
本人も迷ってしまったり、なかなか記憶の糸がたどれなくて困ることが多いのです。
ブログがダンジョンの中身を明らかに(開いて)してくれるので、コンピュータが分かるようにしてくれたとも言えますね。
投稿情報: 栗田伸一 | 2004-12-08 14:37