川合健二について語るとき、自ら弟子であることをあかし、自身も建築家である石山修武の存在を忘れることはできない。
石山は35年にわたり川合健二から影響を受け続け、天才、川合健二について考えてきた。
私が川合のことを知ったのは1973年だから、石山よりも3年以上後に川合と出会ったことになる。それから10年後の1984年、鮮烈な内容で話題になった本『「秋葉原」感覚で住宅を考える』が出版された。この本では川合は「亡命者」として登場していた。
現在、石山のホームページである「石山修武研究室」で毎日のように連載が続いている「世田谷村日記」の3月23日の日記には、次のような内容が記されている。
-- 昨日のHPカバーコラムに偶然ではあったが、川合健二再考のページを設けた。これを持って丹下健三追悼の辞とする。 --
川合健二とも関係の深かった丹下健三が逝ったことへの追悼として、石山は3度目となる「川合健二再考(再々考)」をホームページのカバーコラムとしてアップしていた。
・1970年05月 建築 川合健二考 石山修武 85-86ページ
・1982年12月 群居 創刊準備号 私的近代論-川合健二再考 石山修武
・2005年03月 石山修武研究室 ホームページ カバーコラム028 川合健二再考
「川合健二考」というタイトルではなくても、石山は多くの書籍に川合のことを様々なタイトルを付けて紹介してきた。
亡命者、天才、お茶の水博士、不思議人間、エネルギープランナー、スチールパンク
最初は、コルゲートチューブでできたノアの方舟のような川合の「自前の建築」に圧倒されていた石山だが、35年を経て、川合のことを今はどのように考えているのだろう。
川合の再考について書いたカバーコラムの1つ前に書かれた「027 結城登美雄のこと」では次のように書いてある。
-- 私の師であった川合健二は天才的な技術者だったが、本当は百姓をやりたかった人間だ。千八百坪の豊橋郊外の土地にミカン畑や野菜畑を耕し、晴耕雨読の生活だった。私はそれに共感したが、真似も出来なかった。結城は偉い。川合みたいな事を本当にやってしまった。 --
川合が農業にも関心を示していたことは次の本に掲載されている対談からも知ることができる。
・1996年「姫田忠義対談集 野にありて目耳をすます 2」
民族文化映像研究所編、はる書房発行 対談者の一人として
科学技術と焼畑 川合健二
川合健二について考えるとき、多くの人が彼の自前の建築である「鉄の家」にまず惑わされる。石山も含め、多くの建築家や建築に携わる専門家たちがこの「鉄
の家」の存在を気にしてきた。川合の没後、「鉄の家」を訪れた建築家・建築史家の藤森照信が「ドラムカンの家」について書いた本がある。
・2002年12月 藤森照信の原・現代住宅再見 TOTO出版書籍
181〜200ページ 鉄に吹き込まれた原始の生命力 川合健二の「ドラムカンの家」
この本の中で、石山とも親しい関係にある藤森は川合健二と石山修武の関係をあるエピソードも交え、二人が同じ建材で建てた「川合健二邸」と「幻庵」を未建 築と建築という切り口で批評している。夢にまで見そうな痛烈な印象をもっているのは、生命力のある未建築のほうだという。
幸い私が川合健二に出会った1973年、私はある意味で川合と同じように世の中からスピンアウトし、既成の音楽的価値観を変えようとしていたロックミュー ジシャンだった。大学生でも建築家でもなかったのだ。自前で楽器を作っていた私には、自前で栽培されたキュウリやトマトで作ってくれた花子さんのサンド イッチはすごいごちそうだった。
川合は群れて生きることを「イワシ」によく例えていたが、一匹になったイワシを石山は「亡命者」と呼んでいた。当時の私には、川合の生活は「Self
Sufficiency(自給自足 )」を目標に、科学的にチャレンジしている1人の人間として自然に映った。「日本にもこんなに自由に生きている人がい
る」と感じたのだ。
自前の土地に、工業化時代の智恵で家を建て、自給のための野菜を作り、考えはエネルギーの自産化までとどいていた。誰も知らされていなかったが酪農まで考慮した広大な土地も川合の計画には準備されていた。
川合健二について、我々は建築以外の視点でもっと多くを知らなければならないようだ。
石山的に言えば、我々人間こそ、地球で好き勝手に生きようとしている「亡命者」なのかもしれない。
川合健二という人物について、僕らは石山修武を通して知った世代です。
栗田さんもおっしゃっているように、
石山から見た川合は彼の自邸に偏重した姿になってしまっているのでしょう。
栗田さんの川合健二論はそれだけで、僕にとっては新鮮です。
投稿情報: fuRu | 2005-05-12 17:51
1964年のころから健二氏を知る一人の庶民です。
ハニカムハウスが建ったばかりの頃、よく農機具を買っていただきました。
当初、私は一流の設計技師である事を知らず、
変わった「オッサン」としてお付き合いが始まりました。
「屋敷は一人2反!」が氏のポリシーでした。
ここは海も見えるので、自給自足が可能だ・・・と
あれから35年。
農機具を通じて食の世界に関連して生きてきましたが、やっと氏の考えが理解できる様になりました。
エピソードの尽きない人ですが、私が強烈に印象を受けたのはその徹底ぶりです。
1960年代、(まだ一般家庭にはカラーテレビがやっとの頃です。)
かの屋敷は、メカ屋の私にとって「龍宮城」でした。
観音開きの冷凍冷蔵庫・全自動水栓の洗面器・電磁調理器?
停電に備えての「自家発電機」(これがないと安心して海外にいけない?)
今も残るH鋼のアーチは発電機を下ろすチエンブロックを取り付ける為。
私たちが現地で作ったものです。
今もケヤキのつづらがあるのかなあ・・・・
丸窓の話を聞きながら、紫檀のテーブルでお茶をよばれました。
奥様はご健在かな?当時の健二氏の面影が浮かびます。
投稿情報: yanbou | 2005-09-07 16:50
yanbouさん、はじめまして。
貴重な思い出をお知らせいただき、ありがとうございました。
庭に残るH鋼のアーチは私も覚えています。
私が初めて訪れた時は、すでに全ての機械が止まり始めていたので、
動いているのを見ることができたのは屋根の上のスプリンクラーくらいでした。
散布された水で室内が涼しくなったことを思い出します。
いろいろな方が川合さんと出会い、それぞれ素敵な気持ちを持つことができました。
川合さんの存在は、個人の可能性をどこまでも拡げてくれる希望を抱かせてくれました。
奥さまは今でもあの家をお一人で守っています。
久しぶりに訪問されたらいかがでしょうか。
きっと喜ばれると思います。
投稿情報: 栗田伸一 | 2005-09-07 21:05
yanbouあてに、早速のコメントありがとうございます。
栗田氏の本職が何なのかも知らず、懐かしさのあまりつい投稿してしまいました。
ケヤキの「つづら」は「長持」の誤りです。
お詫びして訂正いたします。
近くに住んでいますので、近々訪問してみます。
投稿情報: yanbou | 2005-09-08 16:39