横田や狭山、入間などに存在した米軍ハウス、「アメリカンハウス」とか、単に「ハウス」とも言っていた。私も含め、1970年代の始めに多くの若者たちがこのハウスで生活をしていた時代があった。今年は、そんな昔を振り返る気持ちが高まっているようで、かつてハウス生活をしていた友人の岩井澤氏が「FUSSA」についてエントリーを書きはじめたり、狭山市にある稲荷山公園では9月にかつてこのエリアに生活していたミュージシャンが集まり「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」が開催される予定だという。
ハウスは、正式には「デペンデントハウス」というらしい。デペンデントとは米国の西部開拓時代からあった用語で「扶養家族」を指すそうだ。軍人達が占領下で自分の家族を住まわせる「家族用住宅」、それがデペンデントハウスなのだ。
私も自分なりに「ハウス生活」の30年を振り返ってみようと思う。でもただの思い出を書き綴るのはあまりおもしろくないので、小泉和子さんがまとめられた書籍「占領軍住宅の記録(上)(下)」2冊の本をガイド役にしてはじめることにした。
1970年代初頭、ベトナム戦争は終焉をむかえ、米軍基地周辺から駐屯する兵隊の数が激減しはじめたころ。私はまったく個人的な理由で、広いアトリエやスタジオになる貸家を探していた。友人の一人が横田基地周辺にあるアメリカンハウスのことを知っていて、借りることができるからと、一緒に中目黒のアパートから車で出かけていった。
はじめての青梅街道をひたすら走ったのだが、それでも横田基地にはまだ着かない。
「東京に上京したのだから、こんな田舎には住めないな!」
そんな思いで日本の街並みとは違ったハウスが建ち並ぶ、当時、「ジャパマ・ハイツ」と呼ばれていた一画に車を入れた。
越前久一氏。
私が最初に借りたハウスの大家さんだ。当時、聞いた話では横田周辺に一番多くのハウスを持っていた地主さんとのこと。その一画にはすでに「ジョージ」と呼ばれていた髭もじゃの日本人が1人住んでいた。借りたハウスは、八高線の線路に庭が面したジャパマ・ハイツのゲートに近い場所。その辺りには、ベトナムから一時休暇で滞在する兵隊のかまぼこ兵舎が建ち並んでいた。
このハウスでオリジナル自転車工房の「Broomstickブロームスティック」が誕生する。相棒となった東君と共に20台ほどのオリジナル自転車を製作した。
デペンデントハウスにはいろいろな規格がある。
私が最初に借りたハウスの玄関は、SHEDと呼ばれる片流れの小さな屋根が付いていた。
その後、結婚して借りることになった16号に面した将校ハウスは、GABLEという切り妻屋根の立派な玄関が付いていた。その他、住んだことはないが、HIPという寄せ棟型の玄関もあった。■デペンデントハウスについて書かれた書籍
2004年11月3日のエントリー「洋裁の時代 母のミシン」でもこの本の著者である小泉和子さんの別な書籍について紹介している。
占領軍住宅の記録(上)(下)
小泉和子・高薮昭・内田青蔵 共著
住まいの図書館出版局 住まい学大系096/097
上:216ページ 下:264ページ
ISBN4-7952-2140-5 ISBN4-7952-2141-3
栗田さんが最初にハウスに移り住んできた時のエピソードを興味深く見させていただきました
でもさすがですね、ハウスの正式な呼び名がデペンデントハウスというとは知りませんでした。
投稿情報: pineapple岩井澤 | 2005-06-20 03:56
かつてGee Bee Clubの橋本氏が、「ハウスの文化を残す運動」を福生市に呼びかけていたことがありました。
実際にハウスで生活した人々は、アメリカの生活様式から何かしら影響を受けているわけですが、私も含め、ほとんどの人が最初の物珍しさで終わってしまい、あとはバラック的に手を入れて使い始めた方が多いですね。
アメリカ軍が使っていた時代は、住人の出入りの際、必ず住宅局の厳しいチェックがあったので、そのおかげでハウスが毎回修理され、50年以上も存続できたのでしょう。
ペンキを塗る作業、水性塗料ではなく、昔から使っている油性のくさいやつ。
この皮膜があのハウス群をアメリカンハウスとして守ってきたのだと思います。
投稿情報: 栗田伸一 | 2005-06-20 12:06