100年住める家は存在したが、100年乗り続けることが可能な車はあるだろうか。
現在では、家も車も工業製品として提供される時代になった。
かつて家はみな手作りだった。そして1950年代のポルシェ356もその面影を残しながら工業製品化していった一品である。
友人であり、尊敬する建築家でもある秋山氏がポルシェ356を見送った。
その報告は彼のブログ「aki's STOCKTAKING」にアップされている。
以前、秋山氏が執筆された「[email protected]の本」で私は書いたが、建築家である秋山氏は356のメカニズムを理解し、ポルシェ356という機械として鍛えていきたいと語っていた。彼はその想いを果たせたのだろうか。
356から彼が学んだ合理性は、フォルクスハウスから[email protected]へと進化を遂げた。今、356を見送った秋山氏がこれから提案するであろう「新しい
家」とはどんなものになるのだろうか。そこには生みの苦しみこそあれ、手作りとか工業製品という意味合いでは語ることができない新しい次元が存在しなけれ
ばならないと感じる。
VWビートルのシンプルさはユーザーの自立を煽り、[email protected]の合理性は住まい手に主としての自覚を促した。
この先、車の新しい存在のしかたはまだ誰も明確に提案できていない。家もまた然りなのである。
購入すること、所有することすらその次元には成立しないのかもしれないが、私は建築家である秋山氏の目に映る地平の先に期待している。
今回もお世話になりました。
この 356 の写真を見るだけで、ちょっと感傷的な気分になったりしています。人間は老いることがあっても、人間が作り出した機械は老いることなく機能するであろうことを想像しています。
又、改めて、僕にとって 356 とは何だったのかをまとめたいと考えています。
投稿情報: 秋山東一 | 2006-02-18 18:03
男がいかにロマンチストなのか、こんなときに気づかされます。
私のエントリーもかなり感傷的なのでしょう。
356の存在は、時代性や出会いにまつわる関係までもが運命に指示されている感じがします。
線引きをされた秋山さんに続き、次は私が356との関係をはっきりさせなければならない時期に来ているように思います。
新しく生まれるモノに期待しましょう。
投稿情報: 栗田伸一 | 2006-02-18 18:20